昭和56年10月1日 月次祭         (末永信太郎)


・・・信心生活とは言えない。信心生活とは、もう、やはり大変(難し?)な話でございましょう。久留米の初代がおられます頃、御本部から偉い先生が、久留米教会にお話にみえた。その講題が信心生活について、ということであった。お話になるのが、まあ、教学関係の先生だったでしょうか、非常にその、難しい教学的なお話であった。只今、せっかく御本部から見えた先生の信心生活というお話を頂いておりますけれども、私は無学で意味が分からん。だいたい、信心生活とは、どういう生活を申しますのでございましょうかと言うて、御神意を伺われると、石橋先生の御神眼に、生まれたばかりの赤ん坊、それにこう、水引が(ある?)。紅白の水引がかかっておる。
 しかも、そのお布団のこうかけてある、その上からこう、水引がかかっておる、というのである。で、先生、はあ、なるほど、信心生活とはそれだなと、まっ、悟られたということでございます。皆さん、どうでしょうか。悟れるでしょうか、分かるでしょうか。これは、いつも福岡の吉木先生がお話になって、もう、何十回とお話に聞いたお話ですから、私は、ははあ、信心生活とは、そういうことを言うんだなということを分からせて頂いたんですけれども。人間、誰しも生まれて来る時に、布一寸だって握って生まれて来たという者はおりません。それこそ、丸裸、無一物です。ね。
 そこから、言うならば着物が与えられ、食物が与えられ、ね、様々、人間が生きて行く上のことを、まっ、お育てを頂きながら、それに、(恩恵?)に浴して行くのでございます。今朝からの御理解に、そのことを頂くんです。ね。信心の根本。今日の御理解を頂かせて頂いております時に、私どもの2番目の息子、光昭。笛の御用を頂いております。が、(家で、そかいしん?)と頂いた。「そ」というのは、(あいぶもと?)のもとという字。(階梯すなわち、ひらく??)正しい。しんは、心である。ね。自分の心を開くのと今日の朝の御理解は、ね、私どもの心を開かせて頂く元になるような御理解であったぞ、というお知らせであった。ね。私どもとては、それこそ無一物とてない。もう、言うならば、私どもがこうしてお生かしのおかげを頂いておると言うても、神様のおかげを頂かなければ、今日の只今はないということ。
 ここ一寸動くに致しましても、神様のおかげを頂かなければ動けないんだ。いや、貴方のおかげを頂かなければ立ち行かないんだ。これが信心の元だ、言うなら、信心生活をいよいよ身に付けて行く、その土台の心だという。そかいしん。心の、ね、開く元と言うのです。ところが、なかなか開きませんですよね。
 それが実感として感じられ、ね、本当にそいうだと頂けて、分からせて頂くために、お互いは、いや、話を聞けば、だいたい理屈ぐらいでは分かりますもんです。それこそ、一掬いの水でも、一粒のお米でも、ね、自分がこうやって握っとるようにあるけれども、なら、チューブにでもなったり、怪我でもしたら、これを握ろうと思うても握られん、許されて握っておるのだという、もう、そういうことじゃ分かるんですけれどね。ところが、そかいしんという、心が開けるということには、なかなかね。
 教祖様もそこのところを、ね、信心する者は肉眼をおいて心眼を開けよと、こう仰せられた。ね。心の眼を持ってする生き方。私は信心生活とはね、本当の信心生活とは、それだと思うです。ね。人情とか常識とか、道徳とかと、こう申しましても、ね、それはね、言うならば心の眼を持って見ると、大変に違いなんです。親切と思うておったことが、まあ、仇になるというのも、ね、本当な親切とは仇になるものではないのだ。ね。そこに、まあ、私どもが自分の心を見極める。ね。
 そこから、いよいよ訪ねて行く信心。ね。一切が神様の御物だ。ね。という時に、言うならば全身全霊に、いわゆる熨斗をかけた生活。ね。私はだんだん、まあ、少しずつ分からせて頂いて思うことは、こげな楽なこと、こんな、また有り難いことはないと思う。
 自分の物でもない物に、自分の物と思うたり、ね、その上にはまた、その自分の物にしたいと我情を、我欲を募らせる。ね。そういう生き方からは、本当の信心生活は生まれてこない。
今日は研修終わって、四時の御祈念に入らせてもらう。そして、(いわゆる?)御祈念中に、何かのお願いを、お礼をさせて頂いて。福岡から、伊藤さんという婦人が参ってみえられてます。昨日も参ってみえて、今日も参って、今、みえたんですけれども。ちょうど昨日で、御信心を頂くようになって丸十年になる。
 ほれで、まあ、十年の記念の御礼お祭りでもさせて頂きたいけれども、今度のお祭りは、ただ伊藤家の宅祭りということではなくて、今、伊藤さんを中心にして、くノ一会という会が、まあ、何ちゅうでしょうかね。合楽の信心共励会の中でも、まあ、独特な、くノ一というのは皆さんもご承知のように、女の忍者ということ。言うならば、自在に自分の体をどこにでも隠すことが出来たり、ね、まあ、(一人商売に?)こう、出ることが出けるわけなんです。そういう、術なんです。
 そういう術がね、を体得した者のことを、今言う、女忍者のことをくノ一と言う。私がこのことを御理解頂いたのは、くノ一、言うならば、「く」は「修行」と私どもは頂くのですから、修行の第一と。ね。修行の第一と、この第一の修行は何と言うても、自由自在に、または無限に、ね、自分の心を有り難い方へ、有り難い方へと頂いて行くけいこなんです。
 もう、どんな場合であっても有り難いという答えを出して行こうという人達の、まあ、集いで段々この、そのくノ一会が発展しておられます。ね。これが修行の第一(言われますからね?)。それにはね、今日も頂くのに、真の信心生活を(  )せて参りませんと、それになかなか出来ません。この方は婦人ながらも、大変、まあ、広大な願いと夢を持っておられる方です。
 御信心を頂いて、言うならば当時、合楽、信徒会館のはじまって、もう一変して信心が変わられたという感じですね。言うなら、全身全霊を持って、その御造営のそのことに取り組む。女ながらも、大きな願いを立てて、それに向かって、まあ、進んでおられます。
 ためには神様、以来、私は自分の身に付けるものを、自分で求めるようなことは致しません、と。これは、まあ、ご主人が大変偉いお方ですから、まあ、お金にども不自由なさるといったようなことはありませんが、去年一昨年でしたかね、ご新築が出けて、立派なお家が出けました。で、そん時に一緒に神様を、お部屋が出けて、それこそ麗々しゅうお神様を奉祭されることが出けた。そして、くノ一会がはじまった。
 その御神前で日々、いわば、信心を求めたり、分からないと言うて、その信心の話にみえたり、相談にみえたりする方が毎日絶たない。で、自分も一緒に共励して、分からんところは御神意を頂いてといったような、まあ、生き方である。ね。そして、言うならば御造営に傾倒してしまわれた。
 そして、十年間。昨日も、お前はもう、何も買わんが、これだけは、もう買うち来いち、と言うてお金を十万出された。何を買いますかち言ったら、お前はね、いい時計を持たんからね、その、時計に、(中最高?)の語形を買え。ね。オメガという(    )の時計が15万円するそうです。それは、また(     )、もうしゃっち、もうそれが、自分で買わんと思うとるけれども、もう、買わなければ主人に対しても済まんというような事になって、まあ、時計屋に参りましたら、ちょうど何か開店何10周年記念といったようなことで、大変大安売り。
 その15万の時計を11万で買わせて頂いたという、お礼お届けがございました。私はそういうこと、そんなことやらも、今日の御祈念中に思うておりましたら、あの、オメガということを頂いて、そのオメガということを、「拝め」とこう頂いた、拝め。
 ははあ、拝めということは、信心せろということでしょうね。しかも、言うならば世界一と言われる、ね、オメガの時計のように、一分一厘の狂いのない、ね、正確なおかげの受けられる信心。それも、言うなら世界一を目指せ、拝めということで、私は目指せという風に、私自身感じました。私はどうでも、日本一有り難い私になりたい。世界一有り難い私になりたいち思うたことなかった。
 けれども、今日から変わりました。うん。本当に世界一、有り難い私になろう。そして、世界一、いわゆる正確無比なおかげの受けられる、そして現されれる信心を頂こう。ね。世界一の信心が出けたということではないけれども、ね、そういうおかげの頂ける大きな願いを持って、私はいわゆる、オメガのような時計の正確無比、しかも、世界一.
 そういう信心を目指させて頂くためには、やはり時計の針の狂いなくと申しますように、ね、狂いのない生活。ね。まず、その土台になるものは、今朝から頂きますように、貴方のおかげを頂かなければ、なら、世界一になれないのだ、と。なら、世界一を願ったから世界一になれるということでもないけど、その、言うならば間違いがない焦点に向かって進んで行くということ。
 一分一厘間違いがないと言うても、ね、これは私たち、久富繁雄さんの間に、いつも久富さんが感じられ、私も感じることだろうと思うんですけれども、毎朝のお茶を頂きます。今日のお茶菓子は、こういうお茶菓子が欲しいな、こういうお茶菓子が欲しいなと思うておると、そういうお茶菓子がちゃっとこう、いわゆる目の前に出される。言うなら、いわゆる、あの玉露(        )、ここに洋館が欲しいなあ、と言うと、もう誰かそこに洋館を持って来よる。
 まあ、(かく?)のようなおかげをね、範囲は狭いけれども、なら、私が生きて行く上に、ね、私が必要と感じるもの、それは、神様がもう、その為に準備をして下さるというのじゃなくて、もう、ちゃんとそこにあるということである。昨日も、私は研修の時に、その、難儀な(     皆の話でございましたけれども?)、私がこう、糖尿病に、もう自分で気が付かないという時分、大変喉が乾く。
 いわゆる、ここの正義先生と、それから文男先生、二人で私のいろいろ何か、自動車でここに、あの、未納のスカイラインが出けた。だからもう、一つも歩かんで、もう、あの未納山の頂上を自動車で行くことが出ける。もう、その道中まででした。ところが、その時分にやっぱ喉が乾くんです。もう、自動車から下りた途端に、もうとにかく喉が乾くけれども、山道にお水やら、飲み物があるはずはありません。
 ところが、文男先生か正義先生だったでしょうか、その、藪の中に大きな冷蔵庫が押し倒してある、分からんように。それを発見したんです。あらあ、こげんとこに冷蔵庫がありますと、こう言う。もと、そこのところがちょっと広場になってましたから、まあ、何か練習か何かのがあったんじゃないでしょうか。
 そいで、その冷蔵庫を引き上げたところが、中にサイダーとかジュースが入ってる。いやあ、本当に私だんは、有り難いなあ。で、私がそこへ来てから、神様がそこへ持って来て下さったのではなくて、もうそこに、ね、私の来ることは分かってる。だから、(森林?)がちょっと、車が手前で止まっておったり、行き過ぎて止まっておったら、そのおかげを頂くことは出けない。
 ちょうど、そこで止まらせて頂いて喉が乾く、そこには冷蔵庫の中にジュースが入っておった。まあ、私はいつもそれを感ずるんです。ね。だから、これは私の小さい、まあ、信心ですけれども。ね。言うなら、合楽教会自体も、いよいよ世界に和賀心時代を、というような願いを持って信心をさせて頂いておるのですけれども。ね。そのことの一つひとつの願いが、例えば海外で布教をさせて頂くといったようなことでも、上様のおかげを頂かなければ出けることじゃないの。ね。
 南米布教でもそうでしたでしょう。もう、絶対宗教人は入られんちゅうの。ね。けれども、神様は行ける、と。ね。それこそ、ある日突然、あちらへ渡れるような、不思議な不思議な働きが起こって、南米布教を、まあ、させて頂いて、まあ、今日、あのようにして、まあ、白黒、現地、日本人というように、沢山な人種な人が助かるようになって来て。ね。しかも、最近はサント・アマロにも(ぶんきゅうしょ?)が出け、ビリグイの上にも分教会が、これは本部のお許しを頂いて、まあ、出けました。ね。
 ほんのわずかの間に、神様のそういう働きがね、起こる。それは、なら、全国津々浦々にそういう働き。そして、和賀心時代が世界に、その内容を言うなら、合楽理念に基づいての生き方というものが、皆に分からせて頂いたら、どんなに有り難い、幸せな世界が開けて来るだろうかと、まっ、思いますのあまりに、そういう願いを立てておるのでございます。
 先だってから、4~5日前に皆さんもご覧になったでしょうか。(てんぴょうのいら?)か、というようなテレビでございましたよね、3時間かかりました。ええ。私はその時、まあ、見せて頂きましたが、シナ、中国から仏教が伝来して来る。その前後の、まあ、お話が、もう、それこそ大変な難儀もしながら、あちらで言うなら教典の研究修行をさせて頂く、(いわゆる曽達?)たちのお話である。
 そして、向こうでもう、(こっけいもおかして?)、その、あちらの偉いお坊さんを(    )に連れて来るという映画でした。もう、何回も何回も心配を致します、日本に渡るための。四回目ですか、まあ、ようやく着くのですが、その時の、もうそれこそ、(    )にいわゆる、あの、(うしき?)にあって、もう、(     )沈むか、と。命も何も全部投げ捨てた。せっかくあちらに書き写して、教典も(   )から捨てなきゅならんという時に、(         )お坊さんが、ね、自分が海の中にはまるから、これで捨てないでくれち。
 まあ、その時に(   )のまあ、その、仏教の伝来して来ると、そういう、その大変な、まあ、言うならば、いわゆる、茨の道を辿って、今日の仏教があるということでございましょう。ある時にはもう、全然、雨が降らない。ね。ほれでもう、その、(    )あの、その(病?)の病気が流行って、水の欲しいけど水(     )ないというな時にです、ね、皆が一生懸命、天に向かってあの、雨乞いを致しております。そん時に、そのシナから一緒に参っておられる、偉いそのお坊さんがね、祈ったからと言うて、雨が降るものではない。けれどもね、天の摂理はね、必ずいよいよの時にはちゃっと与えられるものだということを、皆に教えます。ね。
 それから間もなく、もう、たくさんの雨が降るという場面がございましたが、ね。私は合楽理念を持ってするならば、もっと違った道が、これはね、一つの信念のようなものを燃やすということですから、やっぱり失敗しても、失敗しても、この、それに取り組むなら、どういう事でもだいたい成就すると思うですね、これは宗教に限らず。ね。だから、合楽の場合には、もう、どこまでもご守護を受け、ね、神様のご守護を受けながら、ね、の生き方でなかにゃいけん。
 それには、いよいよ成り行きを尊び、自然を大切にして行くという生き方を身につけて行かなきゃなりません。ね。私はそれを見ながら、まあ、感じたことでございましたけれども、ね、確かに、そういう何かの(本?)で読んだことがありますけれども、渡り鳥がこう日本に渡って(        )、渡り鳥がこう行ったり来たりしますね。ですから、広い例えば、なら海を渡り、飛び越えて来なければなりませんけれども、もう翼が、もうこれ以上は動かされんという疲れる時があるわけ。
 ところが、そういう時にはもう必ずね、そこに止まりになるような(琉国?)とか何かいろいろ、そこに必ずあるという話を聞いたことがあります。ね。天地自然というのは、例えば、これは人間だけじゃないです。そういう鳥や小鳥の上にでも、そういう働きを現して下さるのが天地金乃神様なんです。
 いよいよという時には水があり、いよいよという時には、そこに止まりがあり、流国がある。羽根を休めて、また飛んで行けれる仕組みになってるんです。私は皆さんに聞いて頂きたいのはね、こういう仕組みがあることを分からせてもろうて、我情で我欲でまとめたり、貯めたりというのではなくて、ね、為にはね、言うならば、その、シナのお坊さんが言われますように、それは天の摂理なのだから、ね、為には、んなら、日頃いい加減な生き方とか生活をしておって、そこに言うならば必要なものが必要に応じて頂けるということはないと思うですね。
 天地の大恩も知らず、天地の法則も分からず、天地のいわゆる暴虐の、忘恩の生活をさせて頂き、ね、そして道理に基づく生き方とは反対な生き方をしとる者の上に、そういう素晴らしいタイミングは生まれて来ないと、私は思うです。ね。その小鳥のように、言うなら小鳥が色々考えて生活する訳ではないでしょう。
 言うなら、自然に生きて、自然に亡くなって行くという。ね。そういう生き方をしておる、虫けらの上にでもそういう、言うならば小鳥やら(群れ?)にも神様のそういう働きがある。そういう働きを受け止めるためには、私は、何々は合楽理念を持ってする他はないという風に申しますが、ね、合楽理念は言うならば成り行きを尊び、ね、自然を大切にする。自然の働きに溶け込むような生き方というのは、自然を生かすことだ。神様がお喜び下さることなんだ、と。ね。
 そして、私どもが天地人一如の世界を目指せ、と。ね。天と地と人とが、いわゆる教祖金光大神は、此方が祈るところは天地金乃神と一心とも、同根とも仰せられます。ね。だから、そういう、もう、定まった理があるのですから、そういう生き方を出けれる手立てを合楽理念は説くのです。
 それは、そんなら、まあ、あらゆる宗教が各地に布教をする時に、その仏教ではないですけれども、死を覚悟して、何回も何回も、その(何せんなんぱ?)して、ようやく、日本から渡っとる(日本の曽?)も一人になるというような映画でしたが。ね。そういう難儀魂魄のところを通って、まあ、日本に(年賀?)して参りました仏教ですけれども。ね。
 あの、合楽で説かれる信心はそうじゃないです。ね。そこのね、人間が人間らしゅう、そういう生き方をさせて頂きながら、成り行きを尊び、大切にさせて頂く生き方の中には、ね、神様の働きと一つになれれる世界。ね。そういう世界を目指す。いやあ、大変な高度な話だなあ、大変難しい話だな、と。
 ね、私どもが例えば金光様の御信心を頂いたから、一遍に金持ちになった、一遍に病気が治ったといったようなこと、そりゃ、今日でもね、もう本当に不思議な不思議な、おかげで目が見えるようになりました、立てられ、あれが立てるようになりました。大変難しい手術をさせて頂く上に、初めてお願いに参りましたのに、こちらの親先生がその、(幹部に?)お神酒をポーッと噴き掛けて下さったお知らせを頂いた。
 もう、それこそ不思議におかげを頂いたというような、その、そういうおかげをね、合楽ではもう、毎日見たり聞いたりすることが出けるんです。けれども、そういうことが、んなら、いつ誰の上にでも起こるとか、あるとかということは申しません。
 それこそ、神様が氏子助けたいの一念。言うなら、信心しておかげを受けてくれよという、その切なる願いが、ね、神の権威にかけてでも、言うなら治らん病気を治して下さったり、開けん道のはずの道が開けたりというようなおかげを下さるのであって、そういうご利益が頂けるけん、また、いっちょおかげ頂く、そういうおかげというような信心は、私は合楽の信心じゃないと思う。
 そこから合楽理念の言うならマスターであり、そして、合楽理念に基づく生き方というのは難しいことでは、人間が人間らしゅう生きながら、ね、全ての言うならば事柄に御の字をつけて行く生き方。昨日、ほんに同じと言えば、昨日、宮崎から参って、ここに一緒に拝んでおられると思いますけれども、ある教会で大変熱心に信心されたおばあちゃんが、もう、ここ、医者の言葉では、もう、ここ一ヶ月の命で、合楽のことを聞いておられて、一遍、生きとる間に合楽にお参りをしたい、合楽の親先生という方にお目にかかりたいと念願しておられたそうですけれども、それが出けないので、果たすことが出けないので、その、ご長男になるお方が、今日お参りしてみえとります。
 私はそのことを御取次させて頂きよったら、もう、楷書でもう、見事な「御」という字を頂いたんです。だから、私はここで、その御神眼に御事柄と、一切のこと。例えば、なら、おばあちゃんのお病気でもそうなんですよ、と。ね。病気しようとして、したのではない。おしっこが出ないという病気だそうです。
 ね、ですが、けっきょく神様が求め給う修行なのだから。ね。いわゆる、御の字をつけて、御事柄として頂いて行くおかげを受けなさいよと言うて、まあ、申しましたんですけれども、お導きしてみえた川添さんが、すぐその後に来てから、そのおばあちゃんがですねと言うてから話されますのに、看護婦さん達が大変、こう心配して色々言われると、あの、そげん心配しなさらんでん良かですが、こう、ちゃあんと、出る時が来ると(       )ち仰ったのです。ね。
 それこそ、シナの偉いお坊さんじゃないですけれども、いよいよの時にはちゃっと雨が降ると、それを確信しておれれるということ。そんなら、そういう確信はどっから生まれて来たかと言うと、言うなら全身全霊を持って、その仏教なら、仏道なら仏道に専念された方であって、初めて言えるのであり、〇〇教会の総代を長年なさって、そして、もう、80歳からでしょうか、の高齢にされて、まあ、合楽で皆がこっちにおかげを頂いておることを聞かれて、一遍その合楽の先生という方に会いたいというような願いが、ご子息を通して、まあ、成就した。
 そして、なら、御の字で行きなさいよじゃなくて、もう、既に御の字で行っておられるということを感じますですね。だから常日頃、例えば、お願いをしておりますから、ね、やっぱ出らにゃん時には出ますがと、こう言うておられる、そのお婆ちゃまのその心というものは、ね、簡単な信心から生まれて来ない。そういう事は出て来ない。まあ、合楽で言うならば、日ごろ信心の実験実証を積みにも積み、重ねにも重ねて来ておるから、それが言えるのである。そのお坊さんが、言うなら仏道に専念して来られて、初めて、ね、雨が祈ったから降るのではない。ね。いよいよん時には、そこに雨が降るんだ、と
 もう、いよいよの時だから、もう、降るに違いはないと確信を持って皆に申しましたように。なら、そういうような、例えば先ほどの山の中に私が、その、コーラじゃったでしょうか、その、ジュースを頂いた時のように、ね、もう日ごろに間違いのない信心を段々させて頂いておるから、そういう必要な時に必要なのが、これはジュースだけじゃありません。
 お金でも物でも、一切そう。人間の幸せの条件に必要なものなら、これは一切、私がいいなとか、必要だとこう思うたら集まるです。集まるというよりも、もう、そこに用意してあるです。(合楽心の?合楽っ子の?)ああいう状態だったら、もう、あげようと神様がもう、その、待っておられるような感じが致します。ね。けれども、んなあ、その、今の山の頂上で、私が水が欲しいよいうのを、なら、もう、例えば(はんちょう?)手前で止まって、ああ、水が欲しい。そんなら、まいっちょ久留米まで帰らにゃこてになるでしょう。で、過ぎてからだったら、そこにあることが分からないでしょう。ね。
 そのお坊さんが、日ごろの信心が自分で、ね、確信の持てれる信心を続けて来ておるから、それが言えるのであり、今の宮崎のそのおばあちゃまの話じゃないけれども、日ごろ総代としての信心御用が出けて来ておられる。おかげは沢山頂いて、間違いのない働きを見てきておられる。だから、このことだって間違いのないことなんだ。だから、しゃっち出らにゃん時に出るという風に、まあ、看護婦さん達は反対に慰められるようなお話を聞かせて頂いて、なるほどだと私感じたんです。ね。
 だから、そんなら、そういう風に目の詰まった信心をするということは難しいことかと言うと、(     )である。合楽理念を持ってすると、天地のリズムに乗りながら、ね、もう、それこそ有り難いなあ、こういう時に、こういう場合でも神様のこんなご守護が頂けておるという実感が湧いて参りますから、例えばきついことでも、苦しいことでも、それを頂いて行くことが出来る。
 そういう信心をさせて頂くうちにです、実験実証を積んで行くうちに、段々、本当の本当が分かって来るということは、心の眼が開けて来るということになるのです。私どもが難儀、困ったことだと思うておったことが、ね、心の眼を持ってしたら、神愛の現れであることが分かって来るのです。
 そのことに体して、お礼が言えるのです、合掌して受けられるのです、成り行きを尊んで頂けるのです。神様を大切にすると言うても、神様の御働きそのものを大切にしなかったら、本当の大切ということにはなりません。ね。そこに、同時に信心、心行信行家業の行というような行がなされて、積み上げられて行く中にです、ね、それこそ一分一厘間違いのない働きというか、そういう日々、素晴らしいご守護の中に、タイミングの中に生活をして行けれる。心は弥が上にも有り難うなって行く。
 だから、この調子で有り難うなって行きゃ、日本一もこれは、ばさらか難しいことじゃないぞ。ほれはもう(     )世界一を狙えと、神様は今日は言うて下さったような気がするんです。世界一有り難い私になろう、世界一、一分一厘間違いのない働きが受けられる私になろう。
 為には、拝めである。ね、お願いじゃない、拝めである。拝めということは、信心しておかげを受けてくれという、信心をいよいよ深めて行こう、広めて行こうという意欲が出て参ります。いわゆる、一年一年有り難うなって行くという世界なんです。ね。
 為には、その、根本であるところの、言うならば、をです、ね、そかいしんというものがね、心に開けて来る修行と、同時に只今申しますような教えの実験実証が楽しゅうなるような生き方を身につけて行くことであります。信心する者は肉眼をおいて心眼を開け、と。心の眼を開いた、はあ、困った、どうしようかあ、と言うて見る。いやあ、おかげですが、と言えれんわけ。いやあ、もう、(      )お礼申し上げなければにゃと言えれるんです。ね。
 そういう心におかげがあり、そういう心を和賀心と言うのだと、私は思います。自分の都合の良い時に何でもない時に、平穏無事のような時にです、自分の心が和らいでおる、喜ばせて頂いておるというのではない。人が難儀と感じる時に、もう、それが難儀じゃない。いわゆる、心の眼を開いて見れば神愛の現れであると分かる時に、初めて心の眼が開けたのであり、そういう時に、それを有り難いと受けられる心を私は和賀心だという風に思います。ね。
 しかも、言うならば、皆さん本気でその気になってご覧なさいて。合楽ではその実験実証を日々なさっておられる方達が、もう、とにかく苦しい道なんですけれども、その苦しい道が苦しいということを感じずに、有り難い、有り難いでこう通り抜けて行けれるという、実験実証をなさっておられる方が沢山ございます。いよいよ今月は、御大祭月で、16日の御大祭。
 そして、七日の御大祭を、御本部の御大祭を拝みます。この御本部の御大祭というのはね、合楽ぐらいお参りの少ないところはないです。これはね、もう、まあ、言うなら小さなお教会でも20人、60人あるんですよ。もう、信者さん方がもって(      )皆がお参りするからなんです。例えば、合楽の方達はね、本当に打って一丸となってお参りをすることになったら、もう、度々のお参りがいわゆる、あの、団体列車を仕立てて行かんならんようにならなきゃならんのだけど、ここでは誰も進めませんからね。
 私が言いませんし、けれども、例えば、んなら、御大祭とか御本部の参拝といったようなことは、もう、おかげを頂くもんだと決めておくといいです。そすと、必ずおくり合わせを頂くです。そして、そこで分かることは、なるほど、神様が喜んで下さること、ね、大祭にお参りをするとか、御本部にお参り。
 喜んで下さることは、一生懸命で思や、必ずこんなして成就するから、自分達の生活の全てが神様に喜んで下さるということを焦点にしたら、こういうおかげが受けられるという確信が生まれて来るです。ね。御本部参拝は家族中で、いいえ、どんなことがあっても夫婦で、親子でというようにですね、それぞれの、まあ、信心によって、心がその決めて、本当なこと、間違いのないこと、有り難いことにですね、もう、おくり合わせを頂いたならお参りしよう。旅費のおかげを頂いたら参ろうといったようなこっじゃなくて、お参りするんだと決めとかにゃいかん。ね。
 それには、いわゆる16日の御大祭、そして、七日の御本部の御大祭参拝。それから、三日は婦人の、今度は大会をはじめて5周年になるそうです。だから、記念の、まあ、婦人大会がなされるために、まあ、いろいろとご準備があっとります。私どもの(       )行っとりますとが、あの、舞を、まあ、何ちゅうですか。あの、(   )ね。普通は神様の方へ見せる舞ですけも、いわゆる、一般の方へ向かってる舞をけいこさせて頂いておりますが、お装束がしかし間に合うまいち言いよったら、今日、そのお装束が出けて、まあ、見事な装束が出けて参りました。こんな小さいのが着るのですからね。ええ。
 だから、そういうような、まあ、(余興?)、何ちゅうんですか、これは。え?アトラクションちゅうんげな。ような計画もしてございます。まあ、誘い合わせてね、沢山の方達によって、その大海が神様の願いの行事と共に、準備して参りますように、皆さんしっかり祈って下さい。どうぞ、三日でございます。よろしく。